マラッカ - 2018.12.29 Sat
2日前にユーラシア大陸最南端(ジョホールバル近郊のタンジュンピアイ)に到達したあと、現在はマレー半島西海岸のマラッカに滞在している。
マラッカといえばマラッカ海峡を思い浮かべる。
海峡というからには陸地の間だが、どことどこの間かはわからない、そんな知識レベルでマラッカにやってきた。
調べてみると以下のとおり。
マラッカ海峡(マラッカかいきょう、英語: Strait of Malacca、マレー語: Selat Melaka)は、マレー半島とスマトラ島(インドネシア)を隔てる海峡。南東端で接続しているシンガポール海峡とあわせて太平洋とインド洋を結ぶ海上交通上の要衝となっている[1]。2005年における年間の通過船舶数は9万隻を超えており[2]、タンカー、コンテナ船などの経済的に重要な物資を運ぶ大型貨物船が海峡を行き交っている。そのことからオイルロードと呼ばれることもある。経済的・戦略的にみて、世界のシーレーンの中でもスエズ運河、パナマ運河、ホルムズ海峡にならび重要な航路の一つである。
要するに昔からの海上交通の要衝だったということだ。
15世紀初頭に築かれたマラッカ王国は地の利を生かしておおいに栄えたというが、それゆえにヨーロッパ諸国に狙われ、数奇な運命を辿ることになる。
16世紀初めのポルトガルに始まり、オランダ、イギリスと数世紀にわたって外国支配が続いた。
第二次世界大戦時には数年間ではあるが日本の支配下にあったこともある。
そんな歴史がわかる博物館が併設されているのがスタダイスという建物。
1650年にオランダ総督が居住するために建てられたという。
なかなか興味深い資料も展示してあった。
(↓現地人と西洋人との戦いを描いた絵画)
(↓日本統治時代の展示)
(日本統治時代に発行された紙幣)
ポルトガル支配の頃、マラッカは西洋の宣教師たちの活動拠点だった。
小高い丘にはその名残である教会跡もある。(セントポール教会)
日本人にお馴染みのフランシスコ・ザビエルの遺骨はここに9カ月間安置されていたという。(その後インドのゴアに移された。)
この丘からはマラッカ海峡が一望できるというがたいした眺めではなかったので、息子の希望もあり近くのタワーに上ってみた。
巨大な観覧車(展望キャビン)がゆっくりと回転しながら110mまで上昇していくもので、たしかに市内や海峡を一望することができた。
たまにはのんびり観光もいいものである。
マラッカといえばマラッカ海峡を思い浮かべる。
海峡というからには陸地の間だが、どことどこの間かはわからない、そんな知識レベルでマラッカにやってきた。
調べてみると以下のとおり。
マラッカ海峡(マラッカかいきょう、英語: Strait of Malacca、マレー語: Selat Melaka)は、マレー半島とスマトラ島(インドネシア)を隔てる海峡。南東端で接続しているシンガポール海峡とあわせて太平洋とインド洋を結ぶ海上交通上の要衝となっている[1]。2005年における年間の通過船舶数は9万隻を超えており[2]、タンカー、コンテナ船などの経済的に重要な物資を運ぶ大型貨物船が海峡を行き交っている。そのことからオイルロードと呼ばれることもある。経済的・戦略的にみて、世界のシーレーンの中でもスエズ運河、パナマ運河、ホルムズ海峡にならび重要な航路の一つである。
要するに昔からの海上交通の要衝だったということだ。
15世紀初頭に築かれたマラッカ王国は地の利を生かしておおいに栄えたというが、それゆえにヨーロッパ諸国に狙われ、数奇な運命を辿ることになる。
16世紀初めのポルトガルに始まり、オランダ、イギリスと数世紀にわたって外国支配が続いた。
第二次世界大戦時には数年間ではあるが日本の支配下にあったこともある。
そんな歴史がわかる博物館が併設されているのがスタダイスという建物。
1650年にオランダ総督が居住するために建てられたという。
なかなか興味深い資料も展示してあった。
(↓現地人と西洋人との戦いを描いた絵画)
(↓日本統治時代の展示)
(日本統治時代に発行された紙幣)
ポルトガル支配の頃、マラッカは西洋の宣教師たちの活動拠点だった。
小高い丘にはその名残である教会跡もある。(セントポール教会)
日本人にお馴染みのフランシスコ・ザビエルの遺骨はここに9カ月間安置されていたという。(その後インドのゴアに移された。)
この丘からはマラッカ海峡が一望できるというがたいした眺めではなかったので、息子の希望もあり近くのタワーに上ってみた。
巨大な観覧車(展望キャビン)がゆっくりと回転しながら110mまで上昇していくもので、たしかに市内や海峡を一望することができた。
たまにはのんびり観光もいいものである。
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